変性意識状態(ASC)とは何か advanced 編「統合すれば超越する」

さて、別のセクション「変性意識状態(ASC)とは何か はじめに」では、基礎編として、変性意識状態の基本事項や、その周辺事項について記しました。

ここでは、上級編として、さらに一歩進んで、では、
「変性意識状態を充分に深めていくと、何が起こるのか」
「変性意識状態を充分に深めていくと、本当には、どのような変容が可能なのか?」
「そのような本当の変容を実現するためには、何が必要なのか?」
「そのような状態を常態化し、人生の創造力とするには、何が必要なのか?」
について書いてみたいと思います。

【内容の目次】

  1. 変性意識状態(ASC)の諸相
  2. 軽度な変性意識状態
  3. 極度な変性意識状態
  4. 東洋的モデル(諸相)の示唆
  5. 統合すれば超越(超脱)する トランスパーソナル(超個的)とは
  6. なぜ、幼稚なものが多いのか 超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の違い
  7. 真のコントロールに必要なもの 伝統的シャーマニズムの教え
  8. 行きて帰りし旅 ―英雄の旅

1.変性意識状態(ASC)の諸相

まず、「変性意識状態」と言って、変性意識状態(ASC)のタイプは非常に多岐にわたっています。大きく分けると、「軽度なもの」と「極度なもの」です。
変性意識は、日常意識との対比によって、定義されるものなので、別の言い方をすると、その変性意識状態に入った時に、「日常意識がどの程度残っているか」によって、「軽度なもの」と「極度なもの」を大別できるというわけです。当然、それは「どちらか」に截然と分けられるのではなく、段階やグラデーションとして、どっちにより近いかという相対的な区分となります。

2.軽度な変性意識状態

軽度の変性意識とは、この日常意識が、多く残っている状態です。その場合、私たちは、日常生活の延長として、変性意識を体験します。
例えば、酒に酔っぱらっている状態があります。軽く酩酊している場合もありますが、意識が失われるほど強く酔って、翌日何も覚えていないということもあります。
しかし、そのことによって、知覚される「リアリティ(現実感)」が変わってしまうということはありません。日常生活の延長として、変性意識状態を体験しているわけです。
「夢」は、普通に眠って見ている時は、夢を見ている実感はありません。日常の現実と思って体験しています。しかし、内容的には、相当に非現実的であったり、ぶっ飛んだあり得ない内容です。しかし、夢から覚めると「夢か…」と日常意識に普通に戻ります。リアリティ(現実感)が変わることはありません。
しかし、夢の中には不思議な力を持っていて、夢から覚めた後も、強い眩暈を持って、日常意識やリアリティ(現実感)に強い影響を持つものもあります。中には、リアリティを一変させてしまうものもあります。その場合は、強い変性意識と言えるものとなります。個々のさまざまな具体的事例によって、変性意識の強度というものはあるのです。

3.極度な変性意識状態(ASC)

ところで、変性意識状態の中には、そのような強い変性意識状態があります。
別に引いた哲学者ウィリアム・ジェイムズの有名な言葉を見てみましょう。

「…それは、私たちが合理的意識と呼んでいる意識、つまり私たちの正常な、目ざめている時の意識というものは、意識の一特殊型にすぎないのであって、この意識のまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔てられて、それとまったく違った潜在的ないろいろな形態の意識がある、という結論である。私たちはこのような形態の意識が存在することに気づかずに生涯を送ることもあろう。しかし必要な刺激を与えると、一瞬にしてそういう形態の意識がまったく完全な姿で現れてくる。それは恐らくはどこかに、その適用と適応の場をもつ明確な型の心的状態なのである。この普通とは別の形の意識を、まったく無視するような宇宙全体の説明は、終局的なものではありえない。問題は、そのような意識形態をどうして観察するかである。―というのは、それは正常意識とは全然つながりがないからである。(中略)いずれにしても、そのような意識形態は私たちの実在観が性急に結論を出すことを禁ずるのである」(桝田啓三郎訳『宗教的体験の諸相』岩波書店)

その極度な変性意識状態での感覚(リアリティ)と、この日常意識との「連絡をどうつけるか」が、さらにいうと「どう統合するか」が課題というわけです。
そして、それは実際にそうなのです。
そして、そのような連絡や統合は可能であり、実は、長い人類の歴史の中で考察されてきたものなのです。
それを以下に見ていきたいと思います。

4.東洋的モデル(諸相)の示唆

さて、なぜジェイムズが、引用文の最後に「それは正常意識とは全然つながりがないからである」のような言葉を吐いたのか。それはとりわけ彼が近代のアメリカ人であったからという理由があります。近代西洋世界には、それを扱う世界や方法論はほとんどなかったからです。
実際、このような実践的な事柄を検討するのに当たっては、長い歴史の中、「東洋世界」で探求されていたさまざまな思想や方法論が大変参考となるのです。
ところで、奇妙なことですが、私たち現代日本人は東洋人なのですが、近代になって、軍事的・経済的な必要性から、「西洋近代主義」「西洋科学主義」に順応することで、この東洋的思想・実践の大部分を失ってしまっています。しかし、感性の部分では、まだそのあたりを理解する能力が多少残っています。
ここでは、そのような東洋的な世界観を援用することで、どのようなアプローチが可能なのか見ていきましょう。

ところで、別でも取り上げている、トランスパーソナル心理学(現在はインテグラル心理学を名乗る)のケン・ウィルバーは、現代心理療法と東洋思想を統合(インテグラル)しようと試みた理論家です。
その際、彼が準拠しているのは「インド的なモデル」です。このモデルは、他の東洋諸国のものとほぼ同型であり、近似しているので、ここでは、それを例にとりあげて、仮説のひとつとして色々と検討してみたいと思います。

さて、上の図のような三区分を、ケン・ウィルバーは採用しているのですが、これは、インドでよく使われている区分です。
これは、実在領域の階層であり、物質的次元も、意識も、身体も、このような領域に分かれているということです。
各流派によって、細部は変わりますが、大きくは似た区分となっています。「仏陀の三身」なども同系統の区分です。
図式に従えば、普通の私たち現代人が、「現実」だと信じ込んでいる世界は、すべて「粗大領域」の出来事です。
心の世界も、物理的現実も、すべて粗大領域です。
私たちの普通の日常意識は、すべて粗大領域です。私たちの大部分は皆、粗大領域の中で一生を終えます。
極度な変性意識状態の中では、実は、このような「微細領域」「元因領域」を体験することがあるために、日常意識では、その実態をよくとらえることができないのです。
この日常意識を変容させ、鍛えていくことで、私たちは「微細領域」等を扱えるようになっていくのです。

特に、ここで論点としたいのは、「微細(サトル)領域」です。
この領域は、私たちにとっても、比較的なじみのある領域だからです。
なおかつ、まず実際に体験されていくのが、この領域だからです。
気功でいう〈気〉や、ヨガでいうプラーナなどが、微細領域の存在です。また、そこにある〈意識〉です。東洋に限らず、世界中の宗教の中では、このような中間領域(天使や如来、精霊たちのいる領域)がよく語られています。
しかし、この微細領域は、現在の西洋科学では検出されない領域です。
気功でいう〈気〉も、ヨガで身体を流れるプラーナも、科学的には検出されないエネルギーです。
しかし、実践現場のレベルでは、これらの行を充分に修練習熟していくと、程度の差はあれ、そのエネルギーを感じとれるようになっていきます。
ところで、(そのようなことを元々狙ったものでは全然なかったのですが)体験的心理療法や心身一元論的セラピー(ボディワーク・セラピー)では、日常生活では行なわないような、心身の深いレベルでの感情(エネルギー)をダイナミックに解放(放出/爆発)するということをしていくので、このようなエネルギーを体験しがちとなります。
心身のエネルギーが流動化し、知覚力が鋭敏になり、場合によって、微細なエネルギーを感知できるようになってしまうのです。
筆者の身の回りでも、セラピー(体験的心理療法)を熟練する中で、そういうものを感じるようになったという人は数多くいます(筆者も最初は驚きましたが、あまりに普通に起こるので慣れていきました)。
現場では「からだが開く」などと言ったりもしますが、知覚のチャンネルが開いてしまうのです。
西洋人が、科学に検出されない、微細領域のエネルギーを本気で考えるようになったのは、広い意味では、西海岸の体験的心理療法の影響ともいえます。「実際にそれを感じとる人」が多く出てきたからです。その結果、大学機関などでも、なんとかそのエネルギーを科学的に検出しようとしたのでした。

ところで、普段の私たちは、「どんよりした」「鈍重な」粗大領域にいるので、微細領域を知覚することができません。知覚力のフィルターが「目詰まり」していて、微細な情報を感じとることができないからです。
微細領域を真にとらえていく(統合していく)ためには、「鈍重な」粗大領域の心身を解放し、溶解し、練り上げ、流動化させ、純化させることが、真に必要なのです。
これら、さまざまな東洋的なアプローチが、心身の変容を狙う「行」の形式をとっている理由でもあります。

ところで、ジェイムズが話題にしたような極度な変性意識状態では、このような「微細領域」を体験するということが起こってしまうのです。そのため、「正常意識とは全然つながりがない」というような感想を持ってしまうというわけなのです。普通には、それら「微細領域」のものは、「鈍重な」粗大領域の意識からでは「全然つながりがない」ものなのです。

このような「リアリティ(現実性)」に関して付言すると、例えば、ユング心理学の流れにあるプロセスワークの創始者ミンデル博士(彼はMITで量子物理学を研究していて、途中でユング派に転向した人です)は、「合意的現実 consensus reality 」という言葉を使います。
「合意的現実」とは、皆が「現実」と見なしていることによって「現実」となっている「現実」のことです。
私たちの「現実感」とは、基本的にはそのようなものです。
日本の現代社会では一般に、「科学的であること」を「現実であること」と勘違いしていますが、それは「合意的現実」ということです。そこで自明に「現実」とされているものは、「現代科学という合意的現実」に過ぎないということです。
また、現代の日本人がそう考えがちなのは、真理への考察からではなく、「まわりの皆がそう言っているから」「学校でそう教えられたから」「ネットでそう言っているから」ということに過ぎません。自分で考えたからではありません。
特に「同調圧力」「空気」「権威主義」「横並び主義」の強い日本社会では、特にそのような広義の「政治的力」が「現実観」を規定しているわけです。
精神科医のR.D.レインは「経験の政治学」とも呼びましたが、「個人的な体験(経験)」でさえ、そういう内的な政治によって価値が収奪されてしまっているというわけです。このことは、極度な変性意識状態のようなデリケートな個人的体験を考察するにあたっては特に重要なことです。セッション現場では、クライアントの方の中から、このような体験の価値にまつわる葛藤がよく出てきます。
また付言すると、このような内的な政治が、日本人の間から、まわりとは違う、飛躍的発明が出にくい理由でもあります。

 

5.統合すれば超越(超脱)する トランスパーソナル(超個的)とは 

さて、普段の「どんよりした」「鈍重な」粗大領域でできている私たちが、微細領域にあるものを充分つかまえるには、何が必要なのかについて見ていきたいと思います。
ところで今、「粗大領域でできている」と書きましたが、正確に原理を表現すると「粗大領域に同一化している」ということになります。
インド的・東洋的な観点においては、〈意識〉が「粗大領域」に同一化(癒着/固着)してしまっているために、私たちは自分や世界を「粗大領域」だけのものだと思い込んでいるということになります。

(※ちなみに、この「意識」を、私たちが通常使っている意味での「意識」と解釈すると、少し意味が分からないでしょう。私たちが通常「意識」という時、この自分の自意識(西洋哲学でいえば現象学などが指すこの「意識」)だけを「意識」と呼んでいます。一方、インド思想が指すこの「意識」とは、「ブラフマンは、サッチダーナンダ(存在・意識・至福)である」という時に使われているような「意識」です。つまり、万物に遍在していて、鉱物から植物、動物から人間、神々までに共通している「意識」を含めて、大きく「意識」という言葉を使っているのです)

「変性意識状態(ASC)とは何か はじめに」では、ラジオの喩えを出しましたが、「粗大領域」だけにチューニングが合っていて、他の放送局(微細領域)が聴けないという状態です。
よりインド的に言えば、シュリ・オーロビンドなどが「排他的同一化」と呼びますが、粗大領域による〈意識〉の占有的な事態です。
「それだけが自分だと思い込んで、感じている」状態です。その他の領域が感じとれなくなっているという状態なわけです。
(このオーロビンドの言葉は、ウィルバーなども借用してよく使っています)

逆に言えば、「排他的同一化」を止めて、「排他的」ではなく、他の(微細領域の)帯域も、非排他的に、同時に同一化できると、私たちの〈意識〉は、粗大領域と微細領域を統合的に自己自身(主体)とすることができるということなのです。
多層的に〈意識〉や心身状態が拡大したということになります。

オーロビンドやウィルバーがいう「統合」(多元的統合)も、実はそのような事態を指しているのです。
そのような多元的統合がなされてくると「流れる虹のマインドフルネス」が生じてくることになるのです。

さて、ではなぜ、「排他的同一化」が起こるのでしょうか?
これは、「粗大領域の自我」の抑圧/分裂構造に、その由来があるのです。
感情的な葛藤や執着があると、そのものから自由になれないという事態は、直観的に理解できると思います。
諸々の粗大領域の事柄に、感情的に執着/固着/愛着しているために、私たちは、粗大領域への排他的同一化を止めることができないのです。
と言っても、普通の現代人は、皆、抑圧/分裂構造にあるのです(よほど心理療法をやった人以外は)。

私たちが、普通、この人生で悩んだり、目標にしている事柄(人間関係、金銭関係他)は、みな粗大領域の事柄です。
そして、これらは、抑圧/分裂による「心理的投影」によって起こっているのです。
そのため、まず対処すべきは、実は、微細領域ではなく、粗大領域そのものであるということなのです。

そういう意味では、これは心理療法のテーマと完全に重なるテーマでもあるのです。
これが、ウィルバーの指摘の歴史的な意味でもあるのです。

そして、実はここが一番、実践上は、重要なポイントでもあるのです。

別に、ウィルバーの「意識のスペクトル」論について記しましたので、ご参照ください。
「ケン・ウィルバーの「意識のスペクトル」論/【図解】心の構造モデルと心理変容のポイント 見取り図」

つまり、このモデルの構造自体は、とりたてて新しいことを言っているのではなく、伝統的なことを言っています。この図の新しさは、西洋の心理療法の方法論と結合させて語ったことです。
このモデルが示唆しているのは、現代社会を生きている「普段の私たち」というものは、「大いなる統合(宇宙的統合)」の観点から見ると、局限化された、抑圧と分裂の結果でしかないということです。
もっというと、近代社会そのものが、そのような抑圧と分裂の社会であるということなのです。

そして、これが、私たちが、粗大領域への「排他的同一化」「癒着/固着」を止められない理由ともなっているのです。
そのため、まずは、抑圧の解放と分裂の統合が必要なことなのです。
そして、「鈍重な」粗大領域を滑らかに流動化させ、排他的同一化を超脱することが、微細領域に真に触れ、真に統合するのには一番必要なことなのです。

統合が進むと、粗大領域な鈍重さを超越し、微細領域に適応した微細さや非時空的な自由さ、精妙さを手に入れることができるようになるのです。

一方、「鈍重な」粗大領域を、主に同一化したままで、微細領域を体験するということも、たまに起こったりします。
ドラッグなどの体験がそれです。しかし、それは真の解放や統合を起こしません。むしろ、分裂と葛藤を引き起こしてしまうのです。
このあたりも典型的なパターンになっており、ラム・ダス(リチャード・アルパート)の『ビー・ヒア・ナウ』などがそれを典型的に語る物語となっています(ラム・ダスは、元ハーバード大学の教授で、ティモシー・リアリーらとともに、サイケデリック体験の効果を喧伝した初期のメンバーです)。
また、そのことが、大きな問題となってしまう場合もあります。
そのことの意味合いを次に見てみましょう。

 

6.なぜ、幼稚なものが多いのか 超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の違い

実践的な問題でいうと、近似したテーマが、ケン・ウィルバーによって、初期から語られていました。
超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の区別というテーマです。
ウィルバーの図(絵/二次元)で見ると、「微細領域」というものは、通常の「心身領域」(粗大領域)よりも上の位置に置かれているので、それ自体が、「高レベル」「高次のもの」であるかのような印象を与えてしまいます。
しかし、「微細領域」自体は、単なる存在の基底領域に過ぎないので、(体験すれば、当然多様で深遠なヒントを得られますが)それ自体で、価値があるとか、高次であるという単純な意味ではありません。
下位レベルのものが、充分に「統合」された時に、次に「統合」されるべき領域として図示されているだけです。
さらなる「統合」の対象となった時、統合が実現された時、「拡張された/普遍的な帯域」として価値を持つということです。

一方、「微細領域」自体は、下位レベルの「粗大領域」が統合されていなくとも、分裂したままでも体験することができます。さきのドラッグの問題がそうです。
この状態が、「前個(プレパーソナル)」の問題として現れてきます。
ただ単に、「粗大領域」が統合されていないというのなら、それは単なる心理的分裂や抑圧があるという状態に過ぎません。私たちの多くが、普通そのようにして生きています。
しかし一方、心理的分裂や抑圧を抱えたまま、「微細領域」を体験したり、過度に同一化してしまうと、昔、ユングが「自我肥大」と呼んだように、病理的だったり、幼稚だったりするような奇妙な形で、それが現れてくるということがあります。
禅では、「魔境」として、昔からそのような落とし穴について語られていました。
昔の精神病院には、「私はキリストである」「私はナポレオンである」という人が沢山いたと言います。これはカルトの問題も同様です。

トランスパーソナル(超個)な状態というものは、粗大領域のパーソナル(人格)の統合が充分になされた後に、実現されてくるということです。
パーソナル(人格)の統合がなされる以前(プレ)の状態で、「微細領域」を体験しても、それを充分に自己のものとして真に統合することはできないのです。本人に勘違いや錯覚が起きて、エゴだけが増大する「自我肥大」や、病理的・幼稚な現れ方をしてしまうということなのです。
これが、超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の違いということになります。

なぜ、ケン・ウィルバーが、このようなテーマに焦点化したのかというと、理論的な精度という意味合いもありますが、当時のアメリカは、世の中的に「ニューエイジ思想」の黎明期だったからでした。
巷には、幼稚な前個(プレパーソナル)的なものが溢れており、そういう幼稚なものと、真に超個(トランスパーソナル)的なものを、明確に峻別する必要があったからです。
そして、そのような流行が劣化して、さらに二周三周と周回遅れで入ってきている現代日本において、世のスピリチュアル系と言われるものの多くが、幼稚であったり自己欺瞞的であったりしているのは、そのような理由からなのです。
そういう意味でも、この超個(トランスパーソナル)と前個(プレパーソナル)の違いは、現代の日本では、特に重要な指標となっているのです。人格の統合以前に、そのような事柄を語っても、それは「真の深さ」を持ってないのです。それは、その人間をよく見ればわかります。

 

7.真のコントロールに必要なもの 伝統的シャーマニズムの教え

さて、このように変性意識状態(ASC)に入って、微細領域のものを統合的に扱えるようになるためには、自分の心身(粗大領域)そのものが充分に流動化・統合・純化されていなければならない、という考え方は、実は、古今東西、世界中の伝統を見ると、シャーマニズムの伝統の中に既にあるものでした。
ネイティブ・アメリカンのメディスン・マン(シャーマン)は、しばしば「自分をパイプにすぎない」と語ります。
この世界と異界とをつなぐパイプという意味合いです。

そして、「パイプが詰まっている」と異界のエネルギーを充分に働かすことができない。「パイプが詰まりなく、カラッポ(空洞)であればあるほど」、異界のエネルギー(スピリット)は、この世界で十全に働くことができる、とします。
つまりは、この「パイプ」とは、粗大領域の心身(自分自身)のことです。
「パイプ」に「エゴ」が詰まっていると、幼稚なままの「自我(エゴ)の肥大化」が起こり、異界の高次の力が働かないばかりか、周りに害悪をまき散らす、病んだアウトプット(黒魔術)になってしまうという意味合いです。
シャーマニズムでよく強調される「浄化」の概念にはそのような意味合いがあるのです。
「聖なるパイプの喩え(メタファー) シャーマニズムの方法 エネルギーの流動と組織化」

変性意識状態(ASC)を真にコントロールして、十全に扱えるようになるには、心身の深いレベルでの統合、自我(エゴ)の超越が必要となるというわけです。

 

8.行きて帰りし旅 ―英雄の旅

さて、このようなシャーマニズムが教える伝統は、変性意識状態(ASC)を、いかに扱えばよいかについて、さまざまに教えてくれるものです。
「日常意識/こちら側の世界」と「変性意識/あちら側の世界」とを、十全にノイズなく行き来できる能力を獲得することであり、そのためには、まず「自己の流動化と統合」を充分に推し進めるということなのです。これは「粗大領域」と「微細領域」の間ということも含みます。

そして、このような「往還」の構造形式は、そのまま、神話学者キャンベルの唱える「英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)」のモデルでもあるのです。
世界中の英雄神話というものは、英雄が異界(冥府)に降りていき、怪物(モンスター)や悪霊と戦い、その結果、隠された魔法の力や栄光を獲得するという形式をとっています。
その旅路は、自分の影(シャドー/怪物)との死闘であり、そのことによる死と再生のプロセスを経ることで、英雄(私たち)は、自己の「浄化」と「統合」、新たな力の獲得や「刷新」を達成することができるのです。
これは、これまで見てきたような「真の統合」の暗喩(メタファー)ともいえるものなのです。

私たちも、変性意識状態と日常意識の、そのような「行きて帰りし旅」を繰り返し経験していくことで、変性意識への真のコントロール能力を獲得し、また創造力や拡張された意識/存在状態を得ることができるのです。

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